東京都目黒区5歳女児虐待死事件その7(父親の第4回公判まで)
***第2回公判***
情報なし(10/3の午前が第2回で午後が第3回かも?)
***第3回公判(10月3日)***
1)女児を一時保護した香川県の児童相談所職員だった職員が出廷し、被告が「(女児を)しつけたのは自分だと延々と話していた」と証言したとのこと。
児相は2016年12月、女児を一時保護。17年2月に解除し、同3月に再び保護した。職員の説明によると、2回目の保護の際、児童養護施設で女児と面会した被告は「帰りたいのか、帰りたくないのか」と問い詰めていたとのこと。
職員は、女児が一時保護された際、被告が「『ここまできちんとできるようになったのは自分のおかげで、しつけに対する考え方を変えるつもりはない』と話していて、しつけについては自信を持っていた」と証言したとのこと。
また、被告は「一生懸命やっている自分がとがめられることについては納得がいかない」と話していたとのこと。
職員は一時保護されている時の女児の生活態度について「トラブルもなく、困ったことはなかった」と話したとのこと。
2)母親(女性被告)が出廷し、「最初、2人は仲が良かったけど、だんだん厳しくなり、けっているのを見た」と証言したとのこと。
母親は付き合い始めた頃の被告について、「積極的に(女児と)スキンシップし、女児も懐いていた」としたが、2016年9月に実子が生まれ、母親が育児に追われるようになると、「被告が女児と接する機会が増え、(接し方が)厳しくなってきた」と語ったとのこと。
母親は被告がなぜ女児に厳しく接していたと思うかと聞かれると「しつけを始めたのは女児が賢いから、これもあれもできるんじゃないかとしているうちに、歯止めがきかなくなっていったんだと思います」と答えたとのこと。
今後の被告との関係を問われると、「もう女児と息子には近づかないでほしいです」と話したとのこと。
検察官による最終尋問で、母親は「東京に引っ越してからは女児を直視することができなかった」と話しました。その理由について聞かれると「凝視してしまうと時が止まるような思いがした」「女児に服を着せるなど余計なことをすると被告が怒るので、怖い、怖い、怖いと思いました」と証言したとのこと。
女児が亡くなる3日ほど前、体調不良を訴える女児に与えたのは、バナナとコーヒーだけだったと話しとのこと。
検察官「あなた(母親)が、被告の言いなりになっているのはなぜですか」
母親「...わたしが、ばかだからです」と答えたとのこと。
***第4回公判(10月4日)***
1)被告は被告人質問で、女児へのしつけについて「うまくいかないことを繰り返すうちに怒りが強くなり暴力の方向に行ってしまった」と述べたとのこと。
2)目黒に転居してから死亡するまで女児を外出させなかった理由について「私のエゴ(勝手な考え)を強要させるための手段だった」と述べたとのこと。
3)弁護側の質問で被告は「東京に引っ越して1週間後くらいに、女児がたくさんご飯を食べていたり勉強をしていなかったことがきっかけで怒りが爆発した」と述べたとのこと。
東京に引っ越してきてからの女児への暴力については、「手で頭をたたいたり、ベランダに出したり、冷水を浴びせたりした」と話したとのこと。
去年2月の女児への傷害事件については「時計の勉強を1人でやるように命令したら女児が寝ていて、本人に怒った口調で問い詰めた」と話したうえで、「風呂場に連れて行き、シャワーで顔に冷水を掛けた。女児は苦しそうで嫌がっていた」「殴ったのは全力というわけではないが、手加減はしなかったと思う」と話したとのこと。
そして、「翌日、顔が青く腫れていたが、病院に連れて行かなかったのは虐待の発覚を恐れた保身だったと思います」と話したとのこと。
4)(結婚当時)女児の様子については「生活のリズムが整っておらず、今のままではよくないと考えるようになった」「女児本人に説明を繰り返すうちに怒りが増して、暴力という方向に向いていった」と話したとのこと。
5)被告は香川県で15年ごろに母親の女性被告(27)と交際を始め、「女児がいたので結婚した。両親そろっていた方がいいと思った」と説明。「父親代わりになれるか不安だった」とも述べたとのこと。
別の報道では
結婚した理由を問われた被告は「実父のいない女児の存在が大きかった。両親がそろっているほうが子どもにはいいと思った。笑顔の多い明るい家族にしたかった」と話したとのこと。
6)(女児への)暴行への抵抗はなかったのかと聞かれると、「なくはなかったが、次第に薄れていったのは事実です」と答えたとのこと。
7)なぜ暴力を止めなかったのか?
被告:「私が感情がコントロールできず、すべて私の責任です。他に要因はありません。すべて私の責任です」と答えたとのこと。
8)女児が「ゆるしてください」などと書いたノートを見た感想を問われると、「私の機嫌をとるためだけに書かされたという印象」と答えたとのこと。
9)亡くなる直前の女児の気持ちを検察官に問われ、「言い表せない深い悲しみ、怒りの中にいたんじゃないか」と陳述。「親になろうとしてごめんなさい」と泣きながら謝罪したとのこと。
10)母親(女性被告)(27)から「もう関わらないでほしい」と言われたことについて聞かれると「心苦しいですけど、それに従うべきだと思う」と述べた。また、女児に対しては「私が親になろうとして、ごめんなさいという気持ちです」と語ったとのこと。
11)なぜ今回の事件が起きたのかと聞かれると、「私のエゴが強すぎて、自分が描いた理想を押しつけた自分一人の責任ということしかありません」と証言したとのこと。
12)被告は大学卒業後はIT関係の会社に就職した。しかし、仕事に対するプレッシャーなどから徐々に体調を崩して退職。友人から誘われてススキノ(札幌市)の水商売の店に勤務し、その後、別の友人からの誘いで高松市の店に移ったとのこと。
こんなところですね。
ご存じの方は大丈夫だと思いますが、公判の記録は膨大で被告人質問の内容も大量です。
なので、全てを記載できません。もし全文が知りたい方は別途公判記録を読まれる事をお勧めします。
今まで疑問だったのですが、大卒の被告が水商売になるまでの経緯が出てますね。
IT関係の会社と言うだけで、実際の職種が分かりませんが、プログラムや製品を開発する部門だったりすると、納期や品質問題に直面しますから、プレッシャーは大きいですよね。
特に責任感の強い人だとダメージは大きいかもしれませんね。
ただ、メンヘルで長期離脱した場合でも、良心的な会社なら復帰へのプロセスはルール化しているので、勤務時間を短縮したり、ストレスの少ない職種に変更して勤務を継続する事が可能な場合が多いのですが・・・心が折れちゃったのかな?
それからもう一つ、ちょっとイメージが違っているのが結婚した理由ですね。
私はてっきり、実子を妊娠したからと考えていましたが、第4回公判の話しを見ると、シングルマザーよりも、両親が揃っていた方が良い言う考えだったようです。
なので、望まない結婚だったのか?と言うのは微妙かもしれませんね。
被告自身が責任感が強くて、自分自身の不安を覆い隠していて、自分自身で自覚できないような状態だったと言う可能性もあるかもしれません。
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